みなさんこんにちは。

最後のエッセイの提出も終わり、僕の10ヶ月間にわたる留学生活も終わりに近づいてきました。

っということで、今年度学習したことを考慮した上での僕なりの言語習得に関する結論?っというか仮説についてお話ししたいと思います。(あくまで個人的な仮説です)

まず前提として、言語習得の理論に関しては大きく分けて2種類の有名な考え方があります。

それがチョムスキーを代表とする「普遍文法(UG)と呼ばれる言語装置が人間の頭には生まれた時から存在しますよ」という生得説と、トマセロなどを代表とする、「人間の言語習得は特別なものではなくて、他の能力を習得するスキルと同じなんだよ。UGというものを想定する必要はないよ」という認知的な考え方です。(詳しくはこちら

以前にも少しお話ししましたが、僕は依然として認知的な考え方です。

それは自分の言語習得の経験が、スポーツなどの習得と重なる部分があるとめちゃくちゃ感じているからです。

僕の意見を書く前に、簡単に生得説と認知的アプローチについて見ておきましょう。

まず生得説では、人間の言語習得は他の習得とは全く異なり、脳の中にも言語習得に関する特別な領域が存在する(領域固有性)と考えられています。

生得説の元祖であるチョムスキーは、言語習得において「刺激の貧困」(またはプラトンの問題)に着目しました。

これは、「学んだこと以上のものを人間は使えるようになる」ということです。

例えば、

①「わたしは日本人です」
②「私に日本人です」

上の二つの文章を見たときに日本語のネイティブスピーカーなら②の文はおかしいと判断できます。

しかし、僕たちは他の人たちから「『私に日本人』という文章はおかしいんだよ?気をつけてね」

などというようなインプットはおそらく受け取っていません。

それにもかかわらず日本人ならすべての人が②の文をおかしいと感じる。

これが「刺激の貧困」という問題です。

言語習得を説明するためにはこの刺激の貧困をうまく説明しなければならない。

そこでチョムスキーが考え出したのが原理とパラメーターのアプローチPrinciples and parameters approach)という考え方です。

この考え方の前提として、人間はUGを持って生まれてくると考えられています。

この理論の中では、UGの中にいくつかの種類のパラメーターが入っていると仮定しています。

例えば、自分が今習得している言語が、どんなときにも主語を必要とする言語なのか(ex英語)、またはそうではないのか(ex日本語)。

インプットとして受け取る言語(学習される言語)が英語の場合、パラメーターが「主語が必要」という値にセットされ、もしそれが日本語の場合、パラメーターは「主語は必ずしも必要ない」という値にセットされる、と考えられます。

そして、ある一つのパラメーターがセットされると、それに関連づくパラメーターも次々とセットされていくため、最終的にはインプットで受け取った以上のものが使えるようになるという考え方です。

一方で認知的な考え方では「意図の読み取り」(intention reading)と「パターン発見」 (pattern finding)というスキルが重要になってきます。

いろいろなインプットを受け取っていく中で、人間はインプットを与えてきた人の意図を理解しながら、ある種のパターンを発見していく。

「パターンを発見して一般化していくことで、インプットとして受け取った以上のことを使えるようになる」、という考え方です。

一般化をする過程でもちろん間違った一般化をすることも起こりますが、それはまた他のインプットによって気づいたり、修正することができる、という考え方です。

これが2つの考え方の簡単な説明になるんですが、第二言語習得やバイリンガルの子供について考えた場合、僕的には「パラメーター理論では説明しきれないのではないか」と感じるんです。

また、生得説の方では臨界期仮説(人間には言語習得に最も適した期間が存在し、それを超えるとネイティブレベルには達せないという考え方。だいたい思春期ぐらいと言われている)とも強いつながりがありますが、臨界期仮説の例外(JulieとLauraと呼ばれる成人をこえた後にアラビア語をネイティブベルにまで習得できた人)を説明することも難しいのではと感じています。

ではこれらの問題点はどのように説明されるのか。

ここからが僕の認知的な考え方に基づいたその名も「センス仮説」とでも呼べる仮説です。(注意:勝手に僕が作った仮説です)

前提

人間は時間をかければどんなことでも習得できる

もちろん物理的に可能なことに限ります。

しかし、その時間が一生という時間で足りるかどかはわからない

①「センス」とは、あることを習得する時間を短縮するできるものと仮定する

②センスには強さがある(強いセンスであればあるほど、習得にかかる時間を短くすることができる)

③すべてのことに対するセンスが、生まれたときそれぞれ異なったレベルで割り振られている(遺伝的な影響を受ける可能性大)

④臨界期は唯一生まれながらに割り当てられたセンスを成長させることのできる時間(必ずしも最高レベルに達するわけではない)

⑤第一言語習得と第二言語習得のセンスはそれぞれ別もの

⑥多くの第一言語習得の考え方では、「全員がL1(第一言語)の習得に成功する」と考えられているが、その中でも、人それぞれ違うL1能力を持っている(例えば作家の人であれば書く能力が他の人よりもすぐれているなど)

⑦似ているものに対するセンス同士はお互い影響し合う

これがぼくの10ヶ月の勉強の成果と僕なりの結論です。(しょうもないことばっか考えてんねんなとか思わないでください 笑)

先ほども言ったように、僕は完全に認知的な考え方に基づいて考えているため、この仮説は言語習得のみに当てはめたものではありません。

スポーツやチェスなど、その他の習得に関しても当てはまると考えています。

具体的に説明していきたいと思います。

僕は生得説の人のように、人間はUGを持って生まれてくるとは思いません。

人間の第一言語習得も、第二言語習得も、野球の習得も、チェスの習得も全て同じメカニズムで行われていると考えています。

その中で重要な働きをするのが「センス」。

僕はこのセンスを①のように定義付けました。

そして、全てのことに対するセンスは生得的に割り振られる。(例えば、野球に対するセンス2、サッカーに対するセンス5、チェスに対するセンス8など)

そしておそらく、遺伝的な影響も受けると考えています。(サッカー選手の子供はサッカーに対する生得的なセンスは高い傾向にある?)

そして、先ほど出てきた臨界期。

僕はこれをネイティブレベルの言語習得を行える唯一の期間ではなく、センスを成長させることのできる唯一の期間と考えています。

つまり、この期間に、あることの習得を始めるとセンスのレベルを上げることができるということです。

センスのレベルを上げるには、そのあげたいスキルに接すること。(野球のバッティングのセンスを上げたいならバッティングをするなど)

しかし残念ながら、必ずしも最高レベルのセンスにまで成長させられるとは限りません。

これが僕の中ではプロスポーツ選手になる人と、慣れない人の差だと思います。

プロスポーツ選手は基本的に小さい頃からそのスポーツをはじめます。

僕の考えでは、そのことによって彼らのセンスは育てられます。

そして例えば野球だと、18歳のプロになるまでに、プロレベルに達することのできる期間分まで習得時間を縮めてくれるセンスを成長させることのできた人だけがプロになれる、ということになります。

マイケルジョーダンはバスケットボール選手として有名ですが、実はメジャーリーガーになったこともあります。

彼の経歴を見てみると、実はバスケットボールよりも前に野球の経験があるんです。

その経験によって彼のセンスが成長させられていたと考えると面白くないですか?

ではどのように習得時間を短くするのかというと、それは知識に関連します。

人間には明示的知識と暗示的知識というものがあり、前者は考えてわかる知識、後者は無意識にわかる知識のことを指します。

先ほど質問した「私に日本人です」の質問は暗示的知識を使って答えたわけです。(文法的に助詞の「に」の使い方は〜なんて考えてませんよね?笑)

そして、人間があることを習得するということは、暗示的知識をもつということです。

センスは、明示的知識を暗示的知識に変換するまでの期間を短くしてくれたり、暗示的知識を取り入れやすくすることで、習得期間を短くしてくれていると考えています。

例えばスポーツでも、体の動きを一つ一つ指導された後、意識的にそのことを頭に入れながら繰り返し練習すること(明示的知識)で、その動きを無意識にできるようになる(暗示的知識)と思います。

言語習得でも同じです。

初めは一つ一つ文法を気にしながら話していた(明示的知識)としても、慣れてくると文法を気にしなくても正確に話せるようになります(暗示的知識)。

そして最後の3つ。

僕は言語の習得と言っても第一言語習得と第二言語習得のセンスは異なると考えています。

もし仮に同じであれば、全ての人が第二言語もすぐに習得できるのでは?と感じるからです。

一方で似ていることに対するセンスはお互い影響するという考え方で、第一言語習得に対するセンスと、第二言語に対するセンスは一部では関わり合いがあると思います。

例えば、同じ第一言語習得にたいするセンスと言っても、その中にはライティングのセンス、リーディングのセンス、スピーキングのセンス、など色々と細分化されます。

第一言語でライティングに対するセンスがある人は、第二言語のライティングのセンスも高い傾向にあると考えられます。

ってな感じで、言語習得と他のスキルの習得でごちゃごちゃになりましたが、ここからは言語習得に絞ってお話ししたいと思います。

この仮説が一番貢献する部分はやはり臨界期に対する考え方だと思います。

先ほど挙げた臨界期の例外、成人後に第二言語を習得した人に関しては、生まれながらにして第二言語習得に対するかなり強いセンスを持っていたと考えれば解決できます。

また、この仮説で「天才」の説明もできますね。

「天才というのは生得的に与えられる全てのセンスが、高い値に設定されている人」ということになります。

そして一番重要な点が第一言語習得。

なぜ人間は第一言語習得には苦労しないのに、第二言語習得には苦労するのか。

みなさん答えはお分かりだと思います。

第一言語習得は否応無しに臨界期に第一言語に接するためセンスが育てられているんですね。

つまり全ての人が第一言語習得に関しては比較的高いレベルのセンスを持っていることになります。

一方第二言語は臨界期(思春期あたり)を超えてから学習し始めることが多い。

なので、もともと持っているセンスのみに頼って学習することになります。

その結果人によって大きなレベルの違いが出てくるんですね。

バイリンガルの場合は、第一言語、第二言語両方のセンスを育てることができるため、両方の言語の、早い時期での習得が可能になると考えられます。

Wild childと呼ばれたVictorと呼ばれる子供がよく臨界期の例として出てきます。

彼は13歳ごろまで森の中で人間の言葉と接することなしに生活していて、発見されたあと言語を教育したが結局ネイティブレベルには達しなかったというものです。

実際に実験することは不可能ですが、僕の仮説が正しいならば、もし生まれながらに、第一言語習得に対するかなり強いセンスを持っている人なら、Victorのように13歳以降に第一言語習得を始めたとしても、ネイティブレベルに達することができるということになります。

一つだけ注意して欲しいことは、「センス」だけが唯一習得時間を短くすることのできるものではないということです。

センスというのは内在的なもので、生得的に与えられ、臨界期のみに育てることができるものであるため、臨界期以降に、あることの習得を開始した時にはどうすることもできません。

しかし、インプットの質によっても習得期間は変化すると僕は考えています。

つまり、自分の持ってるセンスと、インプットの質によって習得期間が決まるということです。

スポーツでも英語の授業でも、説明の上手な指導者と下手な指導者が存在します。

当然説明の上手な指導者から受け取るインプットの質の方が高くなるため、そのような指導者から学ぶ方が習得時間も短くなるということです。

したがって、視点を変えると、教師は生徒のセンスに影響を与えることはできません。

しかし、与えるインプットの質を上げることはできます。

なので、教師にとって一番必要なことは、「より良い指導法をみつけ、より質の高いインプットを学習者に与えてあげる」ということではないかと思います。

ってな感じの考え方が僕のこの10ヶ月の勉強の成果ということになります。

自分の目的としていた言語習得に対する自分なりの考え方を見つける、という目標を達成することができたので、自分の中ではかなり満足です。

ただ大きな欠点は、センスという抽象的な概念を用いているため、実験などで証明するのはかなり難しいんですね。

しかし、先ほど挙げたwild childのようあ事例が再び出てきて、その時に第一言語習得に成功したという報告が出た場合、僕の仮説の信憑性がさらに増すのではないかと勝手に考えています。

ってな感じで、海外留学で大切なこと、自分の意見をしっかり持つ、ということを実際に示してみました。

では今回はこのぐらいで!

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